雲南市掛合町入間に八重山神社が鎮座する。国道54号線沿いにある八重滝の看板を目印に山道へ入るとオオサンショウウオの生息地である八重滝群があり、その渓谷を15分くらい車で走らせやっと目的地八重山神社に到着する。ただし渓谷の横に少しばかりの空き地があり、宮司さんの計らいであろうか八重山神社駐車場の看板が風に揺れて立っている。急峻な石段があり文政四年の花崗岩製の鳥居が見える。その先にもとは手水舎であったであろう大岩がある。そこにも文政四年の銘と奉納したであろう入間住の方の銘。そこからほどなく随身門が見えてくる。その門の両脇に不思議な狛犬というか守り神が鎮座している。いつからそこにいるのだろうか。渓谷の急峻な崖で必死に神社やこの山全体を守っているかのようだ。顔つきといい体全体から鬼気迫る気迫を感じさせる。石州温泉津に産する福光石製で、体全体に繊細なノミの彫り後が残っている。そしてその随身門の中には之もまた福光石製の随神像が安置されている。ほとんどの随神は木彫りであるがこの八重山神社の随神は石製、それもこの雲州から遠く離れた石州の福光石製である。私は何度この神社を訪れたであろうか。島根県中の狛犬を求めて雲州から石州ほぼ全域の石造狛犬を見てきた。その中でこの神社の随身門狛犬は別格である。実はこれとほぼ同じ狛犬を、お隣の飯南町頓原の由来八幡宮随身門内に存在するのを確認している。こちらは随身門内にあるのでまだ彩色の跡が残っている。こちらの随身門内にも八重山神社随神像と同じ福光石製随神が祀られている。何らかの関係があるだろう。後に八重山神社の宮司さんよりこの神社と石州との関係や随神像の奉納された年代を詳しく手紙でお知らせいただいた。随神は正徳三癸巳七月吉日(1713)であること、狛犬については不明であること、但し私は既にこの狛犬の猫足台座の裏に同作という彫りこみを確認しており、普通に考えればこの随神に作者の名が彫るか墨書されており、同時に奉納されたから狛犬には同作と彫られたと考えている。宮司さんによると、出張して祀りを行っている講社が石州のみ掲載すると、邑南町臼谷・臼谷分社、川本町因原・因原分社、仁摩町大国・大国分社、最近中止となった講社が仁摩町宅野・宅野講社、行恒町・行恒講社、久利町・久利講社、久手町・杉橋講社、三瓶町・山口講社、三瓶町・多根講社、三瓶町・志学講社、三瓶町・山口講社、大代町、美郷町など・・石州と深い関係があったのだ。古の昔魔人が住み、鶏に姿を変え人々を苦しめていたが、須佐之男命がこれを退治したところ、鶏が金鶏に姿を変え人々に尽くしたという逸話も残る、投げ入れ堂のような本殿があり、金鶏が祀られている。また牛馬の神様として広く信仰を集めている神社である。3年前だっかこの狛犬を市の文化財指定に出来ないだろうかという手紙を近在の方からいただいた。私は即座にこの狛犬はもとより神社全体が文化財指定になるべきだし、十分その価値はある旨を伝えた。昨年末から今年にかけて、雨混じりの重い雪が山陰を覆った。先日、八重山神社を訪れたが木々や竹が折れ、また石段もあちこちひっくり返っていた。たまたま、宮司さんと会いお話しが出来た。宮司さんのお話しを聞くにつけ、このような地域の宝をこのままにしていいのかという、強い気持ちが沸々と湧いてきた。ちなみに福光石製狛犬、随神像は温泉津福光の坪内一門作と考えている。その中の名工坪内家面屋棟梁坪内平七利忠はあの世界遺産登録された石見銀山羅漢寺石窟内の五百羅漢像の作者としても有名である。羅漢寺五百羅漢は明和三年(1766)に完成し、翌年平七は70才で亡くなっている。手元に現坪内石材店の当主よりいただいた坪内家の系図がある。これを見ると少なくとも元禄期には坪内一門は活躍している。詳細は避けるがこの随神像奉納が正徳三年であるとすれば、これほどの随神像を作ったのは坪内一門であろう。狛犬については確たることは言えないが同時期とすることが普通であろう。この狛犬をとくとご覧あれ。これらが放置され失われることは想像だに出来ない。